| タイトル | : 映画『ヴィヴァルディと私』虚構と実像 |
| 投稿日 | : 2026/08/03(Mon) 01:53 |
| 投稿者 | : カーザヴェーチャ |
長らくお待たせ致しました。内容がネタバレにつながるので今まで控えておりましたが、そろそろ全国各地の封切りが
終盤を迎えるころですので、ここに映画と史実の違いをひとつひとつ明らかにしていきたいと思います。虚と実の違いを
お楽しみいただければ幸いです。
これはスカルパの奇想天外な小説『スターバト・マーテル』(2009年度ストレーガ賞受賞。この映画の封切りに合わせて
邦題を『ヴィヴァルディと私』に変更)をベースに、イタリアオペラ界きっての鬼才ダミアーノ・ミキエレットが自由に
想像の翼を羽ばたかせて制作した映画です。主人公は架空の人物のチェチリアであって、ヴィヴァルディは脇役でしか
ありません。もちろん、ヴィヴァルディの生涯を描くことが目的ではありませんし、人物像もミキエレットの想像の産物です。
とは言え、実際にヴェネツィアでロケしていますし(ヴェネツィアは18世紀で時間が止まったかのような街の佇まいなので、
よく街灯や電線、テレビアンテナを上手に隠して、時代劇の撮影をやっています。そのため、テレビで時代劇を見終わって
買い物に出たりすると、タイムマシンで昔に戻ったような気がして頭がクラクラします)、楽器も衣装も小物も化粧も
時代考証がしっかりしているので実に見応えがあります。
では、始めます。
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映画では、「ピエタ養育院」と訳されていましたが、大人を「養い育てる」というのも変です。「救貧院」と訳した例もありますが、
赤ん坊を受け入れて養い育てる施設であって、生活困窮者を救護する施設ではないのでこれも不適当です。「慈善院」なら
事業の対象者を念頭に置いたネーミングではないので一番ふさわしいです。そうした事情からでしょう。音楽関係の論文では
すべて「慈善院」を用いています。配給会社としては異存がなかったのですが、小説の出版社のほうは今更訳語を変えられない
という事情があり、映画の字幕では「養育院」で行くことになったそうです。
A
映画では、1716年にヴィヴァルディをピエタ慈善院が再雇用したことになっていますが、史実は、再雇用されたのは1711年で、
マントヴァのヘッセン=ダルムシュタット選帝侯の宮廷楽長となる1718年まで、ピエタに奉職したままです。
B
映画では、「(オペラ)興行に失敗した」とありますが、これは誤訳で、「興行主としても鳴かず飛ばず」です。1713年に
ヴィチェンツァで『離宮のオットーネ(オットー大帝)』でデビューした後、翌1714年に地元ヴェネツィアでサンタンジェロ
劇場の興行主としてリスト―リの『オルランド・フリオーソ(狂乱のローラン)」をかけたところ、これが大ヒット。詳しいことは
BBS2のスレッドNo.2554をお読みいただくとお分かりになると思いますが、気をよくして自作の『狂人を装うオルランド』を
かけたところ、これがとんでもない誤算に終わります。おそらく、そのことを念頭に置いたセリフだろうと思いますが、
時代設定が1716年だとすると、この年には『ポントの女王アルスィルダ』と『愛と憎しみに勝つ貞節』の二本を初演し、
双方とも成功を収めていますのであたりません。ちょっと、大きなタイムラグができてしまった場面です。
C
映画では、三人の男たちが花嫁候補を求めて、合奏・合唱の娘たちを品定めに来る箇所があります。首尾よく相手を見つけた男が
まるで品物を買うように「費用は?」と尋ねると、「100ドゥカートでございます」との答えが返って来たので、「では病院への
寄贈を倍に」と申し出る場面があります。ここには間違いが二つあります。一つは誤訳です。「慈善院」をospedaleと言いますが、
この言葉は現在では「病院」という意味で使われています。どんなに優秀な翻訳者でも当時のヴェネツィアの知識がないと、つい
誤訳してしまいます。もう一つの間違いは、まるで乙女の身売りのようなやりとりです。これは映画の製作者が、慈善院のことを
よく知らないで台本を書いたからだと思います。ピエタは花嫁として去っていく場合は、当時のヨーロッパの常識であり、日本でも
武家では常識だった「持参金」が支給されました。金額は150ドゥカート。つまり、史実なら、この映画の男は逆に慈善院からの
持参金を手にしたはずです。ついでに書くと、幕臣の間では離縁の際に持参金が日々の暮らしで減っていれば、元の金額になる
ように補填して、嫁入り道具はすべて修理修繕して元嫁の実家に返しました。元嫁の人格を尊重していたからです。
D
映画では、ヴィヴァルディはひどい喘息持ちでした。でも、あれほどひどくてはヴァイオリンは弾けません。ヴァイオリンは
黙って弾きますが、実は声帯を使っているそうで、弾き終わると声がガラガラになるそうです。昔からいろいろな人が、
ヴィヴァルディのこの持病が何であったかそれぞれ推測してきましたが、ヴィヴァルディ自身は「喘息」とは言わずに、
「胸の狭さ」と言っているので、神経性の喘息でなければ、何らかの心理的圧迫が加わると「過呼吸症候群」を起こして
いたのではないかと、素人の気楽さで勝手に想像しています。
E
映画では、ヴィヴァルディに個室が与えられていますが、史実は、教師は通いでしたので慈善院に寝泊まりできませんでした。
レッスンにしろコンサート前のリハーサルにしろ、教師には到着から退出まで、「合奏・合唱の娘たち」出身の女性教師が
ぴたりと寄り添うことなっていました。ですから、慈善院の一角で夜に母親に手紙を認めるチェチリアとヴィヴァルディが
ばったり出くわすなどということはあり得ません。
F
映画では、デンマーク兼ノールウェイ王フレデリック4世(1671-1730)一行のヴェネツィア訪問を1716年に設定していますが、
史実は、1709年1月ごろでした。17年ぶりの再訪で、その長逗留は9か月にも及びました。この王に対してヴィヴァルディは
ヴァイオリン・ソナタを作曲して献呈するというのですが、史実は、1716年に王一行の姿はヴェネツィアにはありませんでした。
ヴァイオリン・ソナタ集も1709年の段階ですでに献呈済みです。たしかに、1716年にアムステルダムで作品5として出版された
ヴァイオリン・ソナタ集がありますが。これには献辞が付いていませんので、おそらく、アムステルダムの出版社ロジェが、
ヴィヴァルディの作品の筆写譜を集めて印刷にかけた海賊版ではないかと疑われています。というのも、当時は楽譜の印刷は
非常に高価で、ヴェネツィアで筆写譜業が大いに流行ったのもそれが原因でした。
大体このような点が挙げられますが、映画をご覧になって何か疑問をお感じになった方は是非ご意見、ご感想をお寄せください。